実践ビジネススクール
2008年 12月 16日

大前研一の日本人論―活路を開いた男たちの志、気概に学ぶ

特別寄稿:松下幸之助、本田宗一郎、川上源一、盛田昭夫……熱き思いと野心が日本を変えた

かつて日本には、熱き「志」と「気概」を胸に秘め、敢然と国外へ飛び出し、世界的な大企業に成長させた優れた経営者たちがいた。

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中国人や台湾人は目に見えないものには投資しない。だから中国や台湾に世界で認知されているブランドは一つもない。韓国は日本を見習ってマーケット投資をするようになったが、それでもコンシューマーブランドを確立した会社は、頭をひねって考えても、サムスン、LG、ヒュンダイの3社しか出てこない。日本なら車でもテレビ、カメラでも、世界の誰でも知っているブランド名が20や30は挙がるだろう。

これら戦後第一世代の日本の企業人は、日本的経営の骨格であり、モノづくりの三種の神器ともいえるこうした強みをコツコツと地道に育ててきた。R&D(技術開発)に、人材に、デポやロジスティクス(物流)に投資をして、地場の産業と競争しながら営業拠点を一つまた一つと広げ、世界に冠たる日本ブランドをつくり上げていったのだ。そうした経営者列伝が、今や完全に途絶えてしまった。

今の日本のビジネスマンが戦後第一世代と比べ圧倒的に劣っているのは、世界に出ていって勝負しようという「気概」である。

松下電器(現パナソニック)の松下幸之助さんは英語が一つも話せないのに、技術提携先を求めて自ら世界に飛び出していった。欧米の有力企業を直接訪問し、当時世界屈指の電機メーカーだったオランダのフィリップス社と電子部品での合弁を実現させたのだ。もちろん松下の代名詞でもある事業部制も同社から取り入れた。ちなみに大番頭の高橋荒太郎さんも英語が話せなかった。

本田宗一郎さんも英語はダメだったが、イギリス・マン島の二輪レースで優勝すると宣言、7年後に夢を実現して、今日のホンダの礎を築いた。

ヤマハの4代目社長でヤマハ発動機を創業した川上源一さんも、英語が話せなかった。ヤマハのバイクは58年にアメリカで行われたカタリナ・グランプリへの参加を足掛かりにして海外へ進出する。バイク好きの私は当時のレース映像を持っていて、ヤマハは途中でリタイアするのだが、実況アナウンサーが「ピアノメーカーのヤマハがつくったオートバイを我々が見るのはこれが最後でしょう。ヤマハハハー!」などと馬鹿にしたコメントを残している。

戦後第一世代の経営者でまともに英語ができた人は、私が知る限りほとんどいない。ソニーの盛田さんはできたが、井深大さんの英語は古株の人に聞いても誰も聞いたことがなかった、という。その国際派の盛田さんにしてもピカピカの英語ではない。ブロークンでも愛嬌たっぷりだから、皆、我慢して聞いていたのだ。相手に通じるまで自分のペースで喋りまくる度胸というか、結果を出す“英語力”は見事というほかなかった。

94歳で亡くなった松下幸之助さんの葬儀で衆目を集めたのは、デッカーさんというフィリップス社の元会長だ。言葉は通じなくても友人代表で弔辞を読むくらいだから、心が通い合っていたのだろう。幸之助さんはフィリップス社への感謝を生涯忘れることはなかった。英語は話せなくても、世界に通じる価値観というものを持っていたと思う。

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プロフィール

大前 研一

ビジネス・ブレークスルー大学院大学学長

1943年、北九州生まれ。早稲田大学理工学部卒。東京工業大学大学院で修士号、マサチューセッツ工科大学大学院で、博士号取得。日立製作所を経て、72年、マッキンゼー&カンパニー入社。同社本社ディレクター、日本支社長、アジア太平洋地区会長を歴任し、94年退社。現在、自ら立ち上げたビジネス・ブレークスルー大学院大学学長。近著に『ロシア・ショック』『サラリーマン「再起動」マニュアル』『大前流 心理経済学』などがある。 >>大前経営塾

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