キーパーソン図鑑
2009年 5月 30日

武田國男:「傍流時代」の蓄積が飛躍の源泉に

経営者たちの四十代:武田薬品工業会長[2]

「組織の運営を任された人間がいい恰好をし、言葉を飾り始めたら、ろくでもないことが始まる」

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多くの若い人が「上司が、自分の力を認めてくれない」と嘆き、「やりたい仕事をやらせてもらえない」とこぼす。だが、自らの行動なくして、自己実現などあり得ない。大切なのは、地味な状況の中にいるときも、考えることを続け、挑戦する気概を失わないことだ。「伏久者飛必高」とは、伏している間に力を蓄えておくことに、核心がある。

武田さんは、73年3月、本流の医薬品事業部に在籍していたとき、真冬の新潟へ営業に出張した。不運にも寒さで風邪をこじらせ、肺炎となって入院。退院すると、傍流の食品事業部長付に配転されていた。

「創業家の三男坊は、傍流で、そっとしていてくれればいい」。周囲はそう考えた。でも、本人は「傍流のところなら、かえって好きなようにできそうだ」と意に介さない。

食品事業は、粗利益が低いうえ、当たるとすぐに真似した商品を出されてしまう。だから、量で一気に勝負しようと考えた。でも、最初はつまずいた。「外食産業に出よう」と考え、上司に「1人ではできないので、誰か下さい」と頼むと、東大出と京大出の社員がやってきた。エリートだったのに、なぜか本流から外れた人たちで「使いにくそうだな」と思う。だが、想像とは違った。外食の何を手がけようかを話し合っているうちに、不思議と波長が合う。2人とも、どこか拗ねたところがあったが、仕事には真剣だった。

東大出の1人が「クレープ店をやりましょう」と発案し、フランチャイズシステム計画をつくり、実験店として六本木交差点の近くに小さな小屋を建てて売ってみた。だが、そうは甘くはない。多数の業者がしのぎを削り合う業界。すぐに2千万円もの赤字が出た。何とか取り返そうと相談していたら、急に横浜の営業所長へ出される。「何かされても厄介だ。お飾りポストに置いておけ」ということだが、これまた、上司らの思惑は外れた。「よーし、営業の現場をよくみてやろう」と気合が入る。37歳になっていた。

横浜で、柑橘ジュース『プラッシー』のてこ入れに、徹底的に米屋を回る。ここで、子どものころからの「鳥好き」が役に立つ。当時、米屋には旦那衆が多く、時間にゆとりもあり、インコや文鳥などを飼うことがブームだった。店へ行くと、1日中、鳥の話ではずんだ。そんな日々を重ねていると、横浜が『プラッシー』の売り上げ日本一となる。

だが、旦那衆は、やはり旦那衆。そんなに一生懸命には売ってくれない。徐々に頭打ちの兆しがみえてきた。そこで、酒屋にもちかけると、店主たちが「いやあ、前から扱いたかったんだ」と喜んだ。出荷量を一気に増やす。ところが、何と、米屋の側からクレームが付く。「米屋以外で売るのは契約違反だ」という。「あんた方が売らないから、酒屋で始めたんです」と反論したが、ラチがあかない。最後は、米の流通団体の責任者に怒鳴り込む。すると、翌週、食品本部から「もう、こっちへ帰ってこい」と告げられた。

わずか1年だったが、現場の実態と残る矛盾を、いくつも知った。

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プロフィール

街風 隆雄

経済ジャーナリスト

つむじ・たかお●1947年生まれ。71年慶応義塾大学経済学部を卒業後、朝日新聞社に入社。経済部記者として産業キャップ、金融キャップ、経済部次長、静岡支局長、本社編集委員などを歴任。2007年独立。著書に『私の源流―トップ経営者からのメッセージ』(朝日新聞社)などがある。

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