部課長の基本
2009年 6月 13日

「片倉小十郎」伊達家を救った知恵と度胸

片倉家は、大名として、いつ独立してもいいほどの存在だった。なぜ独立しなかったのだろうか。

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さらに秀吉が会津に入る段取りとなり、「いつ城を明け渡してくださるか」という問いに、小十郎は事もなげに返答してみせた。「黒川城(のち会津若松城)をはじめ、ほかの城も、すでに空けてございます。城番の者こそおりますが、明日にも明け渡しできます」

これらの対外交渉が、政宗の指示によるものなのか、小十郎の判断によるものかは、史料からは汲み取りにくい。おそらくは政宗の指示を、的確に、そして大胆に、堂々と実行してみせたのだろう。

この交渉を目の当たりにした使者の吉継だけでなく、秀吉も「伊達政宗、片倉小十郎、ただ者ではない」と感嘆した。この対外交渉により、仙台藩外での小十郎の評価は高まった。秀吉から大名に取り立てられかけたこともあったという。

仙台藩内においても、片倉家は1万3千石を領する大名並で、「仙台藩第二の城」白石城を預かっていた。

白石城は、江戸時代初期の「一国一城令」の例外としてあつかわれた。その城主が片倉家だったからにほかならない。秀吉も、そして徳川家康も、「仙台藩の片倉家」に一目置いていた証拠だ。

片倉家は、大名として、いつ独立してもいいほどの存在だった。それでも片倉家は独立を望まなかった。なぜ独立しなかったのだろうか。いわば、いつでも独立できるだけの技術をもった大手電機メーカーのコンピューター・プログラマーが、みずからIT企業を興すことなく、親会社に身を寄せつづけるようなもの。「寄らば大樹の陰」だったのか。

だが、もし片倉家が独立していたら、戦国乱世という「弱肉強食」の世界で、いつ餌食になるかわからなかった。徳川の世でも、いつ改易の憂き目にあうかわからなかった。「ナンバー2」で生き延びることこそ、いちばん賢い方法なのだ、と計算ずくだったのではないか。

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プロフィール

楠木 誠一郎

作家

くすのき・せいいちろう●1960年、福岡県生まれ。日本大学法学部卒業後、歴史雑誌編集者を経て作家となる。近著に『秋山好古と秋山真之』(PHP研究所)、『幕末ミステリー坂本龍馬74の謎』(成美文庫)など。

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