
野副州旦:「黒衣」も厭わず人脈を形成
経営者たちの40代:富士通社長[1]
怒鳴り声は、部屋じゅうに響く。次期社長の候補と思っていた人は、ほぼいない。
経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥
だが、弁護士費用は年間で億円単位から10億円単位が相場。実は、東京の本社は、契約を渋った。
「愛爵禄百金、不知敵之情者、不仁之至也」(爵禄(しゃくろく)百金を愛(おし)みて敵の情を知らざる者は、不仁(ふじん)の至りなり)――間諜に爵位や俸禄、わずかな金を与えることを惜しんで敵情を知ろうとしない者は、兵を犬死にさせる配慮の欠けた人間だとする『孫子』にある言葉だ。「情報収集に金を惜しむな」と、リーダーとしての心得を説いている。
ニューヨーク駐在時代から、情報収集にかける費用は惜しまない。違う世界で「人脈」を築くには、それは当然、と腹をくくっていた。確信を持って本社を説得、折れさせた。在任4年半、リバース氏とはひんぱんに会う。やがて、半導体摩擦とスパコン摩擦は、鎮(しず)まっていく。情報収集は、まさに「経営」の一端を担っていた。黒衣と言える役回りだが、「誰かがこういう機能も果たさないかぎり、会社のグローバル化などできない」と割り切っていた。
ニューヨークでは、IBMの動向に通じた人間をつかまえた。それまで、富士通では海外勤務は日系企業の世話をするSEだけだったが、事務系から初めて「IBMウオッチャー」として派遣された。毎朝4時にクイーンズ区のアパートを出て、近所の日本人記者と一緒にタクシーでダウンタウンへ向かい、出たばかりのウォールストリート・ジャーナル紙やニューヨークタイムズ紙を買った。必要な記事を拾い、訳し、国際電話で日本に伝える。日本は、夜の8時から9時だった。
でも、新聞情報だけでは、価値がない。もっと独自の情報を、早く手に入れなければいけない。駐在していたSEの一人が、米国人の知人を何人か紹介してくれた。その人たちが、次々にいろいろな人と会わせてくれ、「人脈」が築かれていく。その情報通や証券アナリストたちを、片っ端から食事に誘い、話を聞く。
あるとき、その1人が離婚した。慰めようと、何度も一流レストランに招く。音楽好きだったので、小沢征爾氏がカーネギーホールで指揮をするときには、彼女の分まで2席とった。日本的と言える配慮で、反応が心配だったが、素直に喜んでくれた。最後に、彼の会社とコンサルティング契約を結ぶ。報酬は年間3万ドル(当時の換算で約800万円)。自分の駐在手当が月に700ドルだから、その4倍近く。当時としては大きな額で、本社にボロクソに言われる。
当時、IBMは開発中の新機種に「インカ」とか「マヤ」という隠語を付け、一番大きなコンピューターは「カナディアンロッキー」と呼んでいた。そうした話をあの手この手で手に入れる作業は、「007」の世界に近かった。そんな生活が、31歳まで続く。40代でやってきたワシントン勤務への、助走だった。
1947年7月、福岡県・直方に生まれ、高校を出るまで旧・石炭の町で育つ。71年春、早大第一政経学部経済学科を卒業、入社した。
街風 隆雄
経済ジャーナリスト
つむじ・たかお●1947年生まれ。71年慶応義塾大学経済学部を卒業後、朝日新聞社に入社。経済部記者として産業キャップ、金融キャップ、経済部次長、静岡支局長、本社編集委員などを歴任。2007年独立。著書に『私の源流―トップ経営者からのメッセージ』(朝日新聞社)などがある。
武田薬品、富士通、資生堂……。経営者の知られざる素顔を描く。
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