部課長の基本
2009年 6月 27日

太原雪斎「二人羽織」で今川義元を支えた軍僧

桶狭間の戦いを抜きをして見れば、今川義元は北条、武田、織田と対等かそれ以上に渡り合っていた立派な武将だった。

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一度、二度まで断り、「三顧(さんこ)の礼」ののち引き受けたとされている。雪斎の両親が今川家の重臣だったため、氏親の依頼を断りきれなかったようだ。

父氏親の跡を継いだ病弱な長兄氏輝が早世すると、承芳は庶兄恵探(けいたん)と家督を争うことになる。このとき雪斎は、承芳の母寿桂尼(じゅけいに)とともに、承芳を推して家督を継がせることに成功し、還俗させる役目を担う。承芳は義元と名を改めた。

義元に正式に招聘されてからは、雪斎は、今川家の執事として、政治顧問として、戦さの軍師として、すべてにおいて義元を補佐しつづけることになる。

みずからも軍僧として戦場に立った。松平竹千代を今川家に連れてきたのも、北条・武田との三国同盟を実現させたのも雪斎だ。『仮名目録』追加21ヵ条制定にも深く関わっている。

まさに二人羽織。

雪斎なくして、今川義元の華々しい履歴は存在しえなかった。

その雪斎だが、弘治元年(1555)に享年60で世を去った。

桶狭間の戦いの、わずか5年前のことだった。

もし雪斎があと5年長生きしていれば、今川義元は桶狭間で命を落とすこともなかったのではないかという見方がある。義元が桶狭間の戦いで死ななければ、義元は尾張をも手中にしていたかもしれず、さらに言えば上洛を果たしていたかもしれない。若き織田信長が調子づくことなどなかったかもしれない。

太原雪斎は今川義元の「ナンバー2」どころか、今川家を支えた大番頭だった。幼くして出家することなく、今川家の重臣として人生を送っていたとしても、義元の片腕として活躍したことだろう。

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プロフィール

楠木 誠一郎

作家

くすのき・せいいちろう●1960年、福岡県生まれ。日本大学法学部卒業後、歴史雑誌編集者を経て作家となる。近著に『秋山好古と秋山真之』(PHP研究所)、『幕末ミステリー坂本龍馬74の謎』(成美文庫)など。

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