
公共事業の財源はどこからでも同じこと
特別連載:ケインズ再降臨!!【第14回】
根本的に考えれば、財源がどうであれ、「購買力の移転」が行われるだけではマクロ集計的には何も意味がない。
小島寛之 帝京大学経済学部准教授
公共事業などの財政政策を論じるとき、財源のことが問題にされる。増税によるのか、国債の発行によるのか。前節の視点に集約するなら、財源は大きな問題とはならない。
根本的に考えれば、財源がどうであれ、「購買力の移転」が行われるだけではマクロ集計的には何も意味がないからである。「最終的に誰に購買力が渡るか」が重要なのではなく、その過程で「何かが生産されるかされないか」が問題なのだ。
このことを、国債を例にとって考えてみよう。
政府が国債を発行し、それで得た資金で公共事業を行うとする。このときに生じるのは、まず、国債購入者Aさんから発行者の政府への購買力の移転である。次に、公共事業によって、この購買力は失業者のBさんへ移転される。こう見れば、別に増税を財源とするのとなんら変わらない。ただ、国債発行の場合は、もう一度購買力の移転が生じる、というのが異なる点である。国債償還の年に、国民のCさんから税金という形で元本+利子分の購買力が政府に強制的に移転され、次に、政府から国債購入者Aさんへの同額の購買力の移転がなされる。
このように、単に「お金の動き」だけをクールに見るなら、増税を財源とするのと、国債発行を財源とするのは、「購買力の移転」が現在の一回だけで終わるか、現在と将来の二回にわたるかの違いだけだとわかる。いずれにしても、この購買力の移転自体は重要ではなく、それが何かの追加的価値を生み出すかどうかが大事なのである。
もちろん、以上の帰結は、再三指摘しているように「マクロ的に集計したら」という前提であることを忘れてはならない。国民それぞれを個別に見分けるなら、いろいろ議論すべき余地はある。購買力の移転は、マクロ的に集計してしまえば何の経済的な意味もないが、実際には「ある個人を犠牲にして別のある個人を利する」という効果を持っている。増税の場合は現時点で、国債発行の場合は異時点で、納税者を犠牲にして失業者を利する効果を持っている。しかし、これは社会保障制度の問題であって、財政政策に固有の問題であるわけではない。財政政策固有の問題というのは、誰に購買力を移転するか、ということではなく、そのプロセスを利用して「何かの価値を生産できるかどうか」にあるのである。
不況期に不可避的に生まれる失業や貧困は、憲法の保証のもとで「購買力の移転」で救済されるべき必然性が存在する。これは、経済メカニズム以前の問題である。大切なのは、その必然的社会保障のプロセスの中で、副次的に経済価値を創造する、ということであり、このことこそが高度に経済理論的な帰結なのである。
小島 寛之
帝京大学経済学部経営学科准教授。経済学博士。数学エッセイスト。1958年生まれ。東京大学理学部数学科卒業。同大学院経済学研究科博士課程修了。専攻は数理経済学、意見決定理論。著書に『サイバー経済学』(集英社新書)『確率的発想法』『文系のための数学教室』(講談社現代新書)『エコロジストのための経済学』(東洋経済新報社)『完全独習統計学入門』(ダイヤモンド社)『容疑者ケインズ』(プレジデント社)などがある。
武田薬品、富士通、資生堂……。経営者の知られざる素顔を描く。
絶好調企業は必ず効果的な「朝礼」をしている!レポートはこちらから





























