
前田新造:「辞めるなよ」と先手を打った上司
経営者たちの40代:資生堂社長[1]
42歳のときに、大きな挫折を経験した。自ら立案した独立ブランドの化粧品が売れず、左遷された。
経済ジャーナリスト 街風隆雄 撮影=門間新弥
勉強に、都内の東急ハンズへ行ってみた。家庭で必要な様々な用具をそろえている。だが、売り場に「売る人」はいない。でも、相談すればいろいろと「教えてくれる人」「手助けしてくれる人」はいる。包丁ならば、使い手ごとに合うように、どの長さや重さがいいのか持たせてみて、どこまで刃を出しておくのがいいか調整し、そのうえで「じゃあ、レジはあちらです。どうぞ」という具合だ。自分が目指していたところと、共通点が多かった。
東京・青山の高級スーパー紀ノ国屋ものぞいた。すると、オレンジ一つとっても、熟れ方、色、形、質などいろいろで、均一ではない。間口は狭くても、奥行きがある。ここでも、ヒントを得た。
新ブランドのコンセプトは「紀ノ国屋・ハンズ」だった。だが、上層部は取り合わない。「うちにも、安全性を追求した品はある。それで戦えないのは、お前たちがだらしないからだ」とにべもない。
当時、横浜に住んでいた。銀座の本社に、東海道線や横須賀線で通っていた。車窓からみえる広告塔は、同じようにみえても、多彩だ。「新ブランドを、どう差別化するか」と考え込む。寝るときも、思い浮かんだことを枕元に置いたメモ用紙に書き留める。気晴らしにプールへ行って、泳いでいるときも、仕事のことを考えてしまう。そんな日々が、約半年つづく。いまでは、そこまでのことはない。仕事と生活を、かなり切り分けられるようになった。でも、ビジネスパーソンの人生には、40代前半くらいに、そういうことが必ずある、と思う。「ワークライフバランス」が大事だが、それを超えざるを得ない一瞬もある。
悩みつづけていた間に、ライバルの脅威が上層部にも浸透したのだろうか、8度目に書いた提案書が通った。内容は、実は、最初に書いたものとほぼ同じだった。
部長に直訴「仕事を下さい」
86年、新ブランドに『イプサ』と命名し、それを扱う別会社を設立した。39歳。「ここで、骨を埋めてもいい」と、勇んで出向した。だが、売れ行きは計画を下回り、3年後だった黒字化の目標をずるずると書き換える。横並びの文化が色濃く残っていた日本で「自分だけ違う世界」へまで踏み込むお客は、まだ多くなかった。本社へ出向き、書き換えた計画を説明していたら、後ろの席から「何をやっているんだ。約束違反だ、リストラしろ」との声が飛んだ。結局、「本部の人数を思いっ切り絞れ。管理職が5、6人もいるのは、おかしい。少なくとも2人は飛ばせ」と決まる。その2人のうちの1人が、自分だった。
街風 隆雄
経済ジャーナリスト
つむじ・たかお●1947年生まれ。71年慶応義塾大学経済学部を卒業後、朝日新聞社に入社。経済部記者として産業キャップ、金融キャップ、経済部次長、静岡支局長、本社編集委員などを歴任。2007年独立。著書に『私の源流―トップ経営者からのメッセージ』(朝日新聞社)などがある。
武田薬品、富士通、資生堂……。経営者の知られざる素顔を描く。
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